オルヴァル醸造所 (修道院内)

醸造所 Brasserie d'Orval
所在地 Abbaye Notre-Dame d'Orval 0, 6823 Villers-devant-Orval, Belgium
http://www.orval.be

オルヴァルに居を定めた最初の修道士達は、1070年に南部イタリアからこの地にやってきました。その地方の地主であったアルノー・ド・シニ伯爵(Count Arnould de Chiny)は彼らを歓迎して自分の所有地から土地を彼らに提供し、教会と修道院の建物の建設がすぐに始まったのでした。

しかし、修道院を切り拓いた修道士達は、理由はわかりませんが、40年ほど後にそこを立ち去ってしまったのです。彼らに代わってカノン派(Canons)の小さなコミュニティがやって来て、前任者によって始められた修道院の建設を完成させました。1124年に教会が完成し、ヴェルドゥンの司教 (Bishop of Verdun) によって清めの儀式が行われました。しかしその後間もなくしてカノン派の人々は経済的な困難に陥り、その状況から彼ら自らシトー修道会(Order of Cîteaux)に加わることになりました。シトー修道会ではオルヴァル修道院の再興を、最も古くからの同派の下部組織であるシャンパーニュ地方のトロワ・フォンテーヌ修道院(Abbey of Trois-Fontaines)に委ねました。

1132年3月9日にコンスタンティン(Constantin)に率いられた7人の修道士達がトロワ・フォンテーヌからオルヴァルに到着しました。修道士とカノン派の人々はひとつの共同体にまとまって、直ちにシトー修道会の慣習に応じた建物の改造に取り掛かりました。新しい教会が1200年までに完成し、シトー修道会はまた農園や森林地を拓きました。自給自足のためのそういった形の労働が、彼らに自らの戒律にそった生活を可能にしたのです。

1252年、修道院は大火事によって焼失してしまい、多くの建物は完全に建て直さねばなりませんでした。苦難の状況があまりにも深刻であったので、一時期シトー派の権威筋は修道院の実情を隠蔽しようとまでしたほどでした。

15世紀と16世紀を通してフランスとブルゴーニュ公国の間で戦いが続き、その後はフランスとスペインの間の争いがリュクサンブール地方(Luxembourg region)全体に破壊と荒廃をもたらしました。オルヴァル修道院もそれを免れることはできませんでしたが、この困難な状況においても、今にも壊れる危険のあった教会の身廊(中央部の信者席がある所)の再建がなされました。1533年に教会が献納され、その年の共同体の人数は24名でありました。

17世紀に入るとオルヴァル修道院の発展は最高潮に達しました。ベルナール・ド・モンガヤール修道院長(Bernard de Montgaillard)は修道院を経済的に自立させ、修道院の建物を修復しました。彼の指導力はまた修道院の人数をふやすこととなり、1619年には全体で43人を数えました。

ベルナール・ド・モンガヤールの後、まもなく、新たに大きな災難がオルヴァルを襲いました。1637年8月、30年戦争の真っ只中で修道院とその財産が軍隊によって破壊されてしまったのでした。再建は不安定な情勢のもとで17世紀の終わりまでかかりました。

修道士による農業活動や製造分野も発展を続けました。17世紀の終わりから18世紀の中頃にかけて、オルヴァルのいくつかあった鉄工所は西洋鉄鋼産業の先駆けとなりました。1760年以降、修道院の歳入は主として新しい修道院の建設に向けられ、1782年には新たな教会堂が献納されました。

1789年、フランス革命が勃発し、オルヴァルの総ての所有財産がたちまち没収されてしまいました。1793年6月23日、革命軍の兵隊達によって修道院は略奪され完全に焼失してしまったのでした。1795年11月7日に共同体は公にもつぶされてしまい、そのメンバーは解散させられました。1世紀以上もの間、オルヴァルの黒焦げになった壁は風雨にさらされ、石や金目のものを求める輩のなすがままでした。

1926年になって、デ・ハーレン一族 (de Harenne) がオルヴァルの廃墟と周辺の土地をシトー修道会に提供することを申し出たことで、その地に修道院生活が再開できるようになったのです。新たな共同体設立の務めを帯びて修道士の一団がフランスからオルヴァルに送られてきました。

フランスのラ・トラップ修道院(La Trappe Abbey)の修道士であったドム・マリーアルベルト・ヴァン・デル・クレーセン(Dom Marie-Albert van der Cruyssen) が再建のための多大な仕事を引き受け、新しい修道院は建築家のヘンリー・ヴァース(Henry Vaes) の設計図によって短期間のうちに建設されたのでした。新修道院は18世紀のものと同じ基礎の上に建てられ、1948年に完成しました。

オルヴァルの長い歴史を通じて、初期の段階から修道院で醸造所が操業されていた証拠があります。修道士達はビール成分に滋養分が多いことを高く評価しており、ビールのことを「液体のパン」とよく称していました。

1529年、皇帝カール5世は修道士に、戦争で被害を受けた修道院の修復に必要な歳入をもたらす鋳造所を始める許可書を与えました。

フランス革命の破壊的な衝撃の後130年以上も経てオルヴァルが再びその廃墟から立ち上がり始めた時、修道院再建への多大な作業は莫大な財政的資力を必要としました。そこで、かつての鋳造所の役割を担うだろうとの考えから醸造所が設立されました。

1931年に醸造所が建てられ、修道士の監督のもとで醸造所で働くための信者が雇用されました。その頃修道院では既にパンやチーズを生産していました。最初の主任醸造技師はパッペンハイメル(Pappenheimer)という名のドイツ人でした。彼は今もオルヴァル修道院に埋葬されています。

オルヴァル・ビールの非常に特色のある味わいは多分にパッペンハイメル氏とベルギー人のホノレー・ヴァン・ザンデ(Honoré Van Zande)に負うところが大きいと言えます。彼らは同時期に醸造所に居合わせていたのですが、自分たちの醸造方法や英国流の「ドライ・ホッピング」(ビールの熟成段階で新鮮なホップを投入する方法)といったような、いくつかのあまり知られていない技術も大胆に使っていきました。個性的なビアグラスやオルヴァルのちょっと変わった瓶形、特別なラベルデザインといったものが今なお使用され続けていますが、これらは1930年代初期に生まれた同じ原型への物言わぬ証人達でもあります。

<トラピスト・ビール>

現在、正真正銘の「トラピスト・ビール」は世界で10ヵ所。そのうち、ベルギーには5ヵ所あります。これらのトラピスト会の厳格な規則に従っている修道院で作られる製品だけが「トラピスト」の看板を掲げることができ、共通の「トラピスト」マークが付けられています。

トラピスト・ビールの特徴は、

1. 修道院敷地内で醸造されている

2. ビール醸造についての権限は修道士達にある。

(ただし、従業員は修道士ばかりとは限らない)

3. ビール販売に於ける収益は修道院の運営管理に使われ、余剰利益は地域社会の慈善事業等に使われる。毎年様々な慈善事業からの申し出がある。